-傷-




曹操が都から戻ると妙な噂が耳に入った。





従兄弟の夏侯惇が狂ったというのだ。





夏侯惇は下ヒの戦で曹性に射ぬかれ左目に矢傷を負い隻眼になった

しかし曹操が都に出発するまでその従兄弟におかしなところはなかったはずだ。

隻眼になったことさえ豪快に笑い飛ばし

『孟徳の覇業の為にもうこの体はお前に くれてある。今更目玉など惜しくないわ』

そう言っていた。

それが…城中の人間が夏侯将軍が狂ったと密やかに噂している。

鏡を床に叩きつけ暴れると言うのだ。

剛胆で真っ直ぐで不器用な男だった

己の覇道に引きずり込んだ結果が従兄弟を狂わせて しまったのではないか

曹操は夏侯惇を心配せずにいられなかった。

曹操は夏侯惇を邸に呼びつけるのももどかしく典韋を伴い従兄弟の邸に向かった。





「元譲。儂だ」

そう声をかけ夏侯惇の私室の扉を開いた。

目を疑うような惨状、床には割れた鏡の破片が散乱している。

それだけでは収まらず花瓶なども転がっていた。

元々質素な暮らしを好む男だったのであまり物はなかったが いつも必要最低限の物をきち んとあるべき場所に納められた整頓された部屋だった。

曹操は危ないですと止める典韋の声を無言で手で制すると

破片を避けながらゆっくりと夏 侯惇に近づいていった。

「…元譲…」

そっと声をかけるとビクリと肩が揺れる、声をかけられるまで曹操に気づかなかったらし い。

武人にあるまじき行為だった。

それだけでも曹操は夏侯惇の尋常じゃない精神状態が 伺い知れた。

「元譲…お主について良からぬ噂を耳にした。様子を見に来たらこの有様、お主いったい どうしたと言うのじゃ」

曹操が告げると夏侯惇はようやく残った右目を向けた。

その瞳を見た途端曹操は己を呪いたくなった。

いつも先陣を切って戦場を駆け抜けるキラ キラとした夏侯惇の瞳はすっかり光を失い地の底の様に暗かった。

「…孟徳…早く…早く、戦わせてくれ…」

悲痛な瞳でそう懇願してくる夏侯惇の肩を曹操は激しく揺さぶる。

「元譲!儂のいぬ間になにがあったのじゃっ」

夏侯惇は眉根に深く皺を刻むだけだった。

一向に口を開かない夏侯惇に曹操はじれた、心配なのに何も語ってくれようとしない…

「喋る気がないのなら我が邸に連れ帰り何日お主を監禁してでも喋らせるぞ!悪来っ!」

そう言い典韋に夏侯惇をかつぎ上げるよう命じる。

長身の夏侯惇よりも頭一つ分背の高い典韋は どんなに抵抗されても軽々と肩にかつぎ上げ て部屋を出ようと扉に向かった。

抵抗をやめ黙ってかつがれていた夏侯惇は諦めたように ため息を吐くと小さく呟きだした。

曹操は一句一句聞き逃さないよう耳を澄ます。

「……お前が‥留守の間呂布軍の残党狩りがあった……… 思うように敵を倒せぬことに驚 愕した…片目になって距離感がわからないのだ…」

眉根の皺を深くした夏侯惇を曹操は ジッと見つめた。

今にも夏侯惇が泣き出すのではないかと思ったのだ。

「元譲‥戦が怖くなったか?」

真っ直ぐに右の瞳を見つめながら問うた。

「あぁ…怖い…怖いのだ…」

夏侯惇はそう呟くと右目をぎゅっと閉じた。

「ならば戦線を退くか?お主程の武将なら第一線で戦わなくとも…」

「勘違いするな孟徳」

曹操の言葉は夏侯惇に遮られた。

「俺は戦って死ぬのが怖いのではないっ」

それでは何が怖いと言うのだ。

曹操は意味がわからず黙り込むしかなかった。

「孟徳……俺はお前の戦力にならないかもしれん自分が怖いのだ‥ 戦で死ぬのはかまわん。しかしお前の役に立てず犬死にするのは…嫌だ」

曹操はハッとして夏侯惇を見た。

猛将として知られ曹操軍の切り込み隊長を勤める目の前の従兄弟は 悔しさに唇を噛みしめ 震えていた。

この強い男が精神を病む程に自分を思っている、そのことに曹操は喜びを覚えた。

「元譲、儂は都でいくつかの噂を耳にした。 『隻眼の鬼将軍』戦地で出会ったら生きては 帰れぬとな… お主の目は一つになったがお主の武は一つも衰えておらん。」

曹操は晴れやかに笑った。少しでも安心させたかった。

「隻眼結構ではないか、誰もが恐れ慄く目印になろう。 それでも己の武力が不安なら 今まで以上に鍛錬すればよい」

夏侯惇はしばらく押し黙っていたがゆっくりと聞いてみ た。

「孟徳、俺はお前の駒としてまだ役にたつのか?」

「はっ、何を言っておる!お主がいなくては曹操軍は機能しないだろうが お主が嫌だと言っても儂はお主を使うぞ。 くだらんことを考えてる暇があったら寝ろっ、しばらく寝ておらぬのだろう?瞳が落ち窪んでおるぞ」

そう言って夏侯惇の黒く艶やかな髪を指で梳いた。





夏侯惇の邸、久しぶりの安眠を貪るように夏侯惇は深く眠った。

側には眠りにつくまで夏侯惇が着衣の袖を離さなかったため曹操があった。

苦笑混じりに安らかな寝顔の従兄弟を覗き見る、左目は痛々しくまだ生々しい傷があっ た。

とても綺麗な瞳だった、今はもう失われてしまったが。

曹操は夏侯惇のキラキラと燃えるような瞳が昔から好きだった。

「元譲、お主がもし残る右目を失おうと…手足全てを失おうと儂はお主を手放すつもりは 毛頭ないからな」

そう呟き左目に唇を落とした。








後日

戦に赴く曹操軍の先頭には『夏侯』の旗が誇らしげに風になびいていた…










すみません。
文才の無さに笑止千万。
でも初めて書いた操惇SSです。頑張ってみました!
なんとなく内容から「心」の下に置きました。
短い文しか書けないと思いますがこれからも宜しくお願いいたします。

2004.09.01