-深淵-









幕内が騒然となった。


それは一瞬の出来事だった。


投降すると言ってきた兵を夏侯将軍が簡単に信用してしまったのだ。
一瞬の隙をつき、投降兵は将軍が差し出した手を掴んだ。本当にあっと言う間の事で、天幕にいた誰もが反応
できなかった…
その投降兵は、すかさず隠し持っていた短刀を夏侯将軍の首筋に突きつける。薄皮が切れ、そこから紅く血が
滲むのがはっきりと見えた。




人を信用しやすい…それは兵等が将軍を慕う理由の一つでもあったが、それはあくまでも味方を信じるという
事においてであって。敵相手にまで同じ気持ちでいられたら何時何があるかわからないのだ。


だから、偽の投降を危惧し、私は何度も用心して下さいと助言したのに、将軍は心配するなと笑い聞き入れて
くれなかった。


人を信じすぎるところのある夏侯惇が心配でならなかったのだ。


少しでも呂布軍の兵を減らし、殿に有利な戦へと持っていきたいと、焦りにも似た思いがあったのかもしれな
い…
だからといってたいした武装解除もさせず己の天幕へと敵兵を招き入れるとは…


そうして夏侯将軍は偽投降者の手に落ちた。
どよめく陣中を将軍の「騒ぐなっ!」と言う声が響く。こんな時だというのに、一番落ち着いている。

しかし、諫められなくとも、将軍を人質にとられ我が軍は何も手を出すことが出来ない。
ただ夏侯将軍の首筋に押し当てられた短刀のやいばが、闇の中で篝火かがりびの明かりに反射し、だいだいに光るのを眺め
ている事しかできなかった。


まんまと将軍を連れ去られ、我が軍は混乱を極めていた。
急に頭を失った群れが統率力を無くすように、兵等が徐々に崩れていく。

副官としてどうにかせねばと思っていたところ、程なくして敵からの要求が伝えきた。


「人質の命惜しくば、食料と金品を差し出せ」


そんな事の為に彼の方を人質にとったと言うのか!

彼の方の肌に刃を突きつけたと言うのか!


怒りに奥歯を噛みすぎてこめかみがギリギリと軋んだ、歯茎から血が滲み鉄錆の味が咥内に広がる。
怒りに震える体を無理矢理に抑え込んだ。とにかく、今はこの軍を纏めなければ…
外していた鎧を手に取り、身なりを整えると兵達を集め、一喝する。


「我らは曹 孟徳の名により賊を討伐する為赴いたのだ。いくら将軍の身が危険と言えど、賊と同等の輩に屈す
るわけにはいかぬ…明朝我らは討って出る、皆そのように心得よ…夏侯惇軍の怖さ、思い知らせるのだっ!」


『夏侯将軍の御命を優先せよ!』


感情のままに吐き出してしまいそうな言葉をぐっと飲み込み、無表情に告げた。

それは貴方の誇りを傷つける行為だから。

だから、見殺しともとれる策を実行しなくてはならない。
それがどれほどに胸を斬り裂くが如く苦しい決断か。




「だが…もしもこれで将軍が死ぬなどという事あらば、私もすぐに追って逝くつもりです」


届かぬ思いを言葉にし、敵が陣を張る場を韓浩は一晩中見つめていた。









早朝、まだ日も昇らぬ薄闇の中、率いる将軍を欠いた兵達が森に身を隠すよう足音を消し、息を殺し進軍して
いた。


目標は呂布の一軍が陣を構える廃墟。


外には見張りの兵が立っていたが、人質をとっているという思いからか緊張感が見られなかった。
奇襲をかけるならば今が好機だろう。

茂みに潜み戦闘へむけ息を整える。

突撃の合図を出すため、ゆっくりと剣を持った。ゴクリと唾を嚥下する。
いつもならこんなに緊張することなど無かった。

戦はいつでも死と隣り合わせだったが、自分の命は初めて会ったあの日より既に将軍に差し出してある。
いつもそう思っていたので、死さえ怖いと思ったことは無かった。
寧ろ、彼の方の為に命を落とすならば本望だとさえ感じていたのだ。


一度目を閉じ深く息を吸い込む。
剣を天にかざし、勢い良く前へと振り下ろした。
それを合図に兵は地に轟くような低い気合いを発しながら駈ける。
皆が皆同じように恐れている者はなかった。
将軍を慕い、将軍を人質になどとった敵を怒りと共に殲滅せんと瞳はギラギラしている。
怖じ気なく兵を死地へと向かわせる事の出来るのは将軍の人柄故。兵を信じ、一兵卒の死にまで涙する将軍故。


奇襲に気づき剣を向けてきた敵を得物を二・三度凪ぎ、屠る。


狙うは首…


彼の方の肌に傷を付けた代償。

驚きに目を見開いたまま地に転がる首を踏みつけた。その首を何の感情もない目で見下ろす。


「我が軍は君命により賊討伐に参っている!いくら将軍を人質にしようが、将一人の為に法を曲げることなど有
り得ん!」


そう叫び駈けた。

仕方の無い事とはいえ、口にするのも憚られるような言葉を血を吐く思いで吐き出す。君命よりも将軍の命を守
りたい。そう願う気持ちを無理矢理に押し静めた。

兵が敵を殲滅している合間を縫って、廃墟へと踏み込んだ。


「将軍っ!夏侯将軍っ!!どこにおられますかっ!」


いくら叫べど返ってこない返事に嫌な汗が滴り落ちる。

まさか…

脳裏に浮かぶ不吉な光景を振り払うように頭を振った。
名を呼びながら次々と戸を開け放つ。そして、慌て斬りかかって来る敵を一閃ののち骸へと変える。
しかし、斬り込む先々の室の中には将軍の姿が見えない。


そんなはずはない!彼の方が死ぬなどということは有り得ない!


縋るような思いで一番奥、最後の戸を勢いに任せ蹴り開けた。
待っていたとばかりに敵の剣が振り下ろされる。それを剣を潜り、前に転がるようにして避け、瞬間的に室の中
を確認するべく視線を巡らす。


「将軍っ!」


室の奥の柱に後ろ手に縛り付けられ、ぐったりと意識を失う夏侯将軍を見つけた。

その姿を見つけ安堵するも、それはすぐさま怒りへと変わる。
武具を外され、艶かしく半身を晒すその様子。それは誰が見ても将軍の身に何が降りかかったのか一目瞭然で…
敵に目もくれず側へと走り寄った。


「な…なんてことを…」


局部は精に濡れ、溢れ出る白濁もそのままに、力なく投げ出された両脚は痛々しく傷だらけで、抵抗の跡があり
ありと見てとれた。
口元からはその際に殴られたのだろう、流れ出た血液の赤黒い線。


怒りで頭がどうにかなってしまいそうだった。
まなじりは吊り上り、牙を剥くように唸った。


「貴様らっ…将軍に陵辱を働いたのかっ!!」


剣をギリギリと握りしめ、敵兵を睨みつける。
戦局の不利を感じたのか、敵は途端蒼白になると剣を放り投げ両膝を地に着いた。所詮見張りの一兵卒である。
恐怖にガチガチと鳴る歯を必死に抑え、口々に俺じゃないと否定の言葉を吐き出し始める。


確かにこんな奴等に将軍に乱暴を働く程の度量はあるまい…

しかし…


「しかし、貴様らでないとしても…将軍の此の様な姿をその目に捉え、焼き付けたなど…許されるわけがない。
死をもって償え…」


敵兵へとおもむろに近づき、剣を振り上げた。



見開いた目には恐怖の色と、面の如く感情が掻き消えたかの様な自分の姿が映っていた…




「将軍っ!!元譲様っ!!」
「元嗣…」


揺すりながら呼ぶと僅かに身動ぎ、薄っすらと目を開いた。
擦れる声で名を呼ばれホッと息を吐き出す。

…よかった…生きておられた…

後ろ手に縛られた縄を、腕に傷をつけないよう慎重に剣で斬り、自由にする。
縄目が紅く擦り切れ、血が滲む手首に私は知らず唾を飲んだ。
剥き出しの半身に顔を逸らしながらそっと衣服をかけてやると、自分の姿を思い出し眉を顰めているのがなんと
なくわかる。


「すまぬ・・迷惑をかけた」


そう言って申し訳なさそうに頭を下げられた。

貴方が生きていてくれた…それだけでいいのです…それだけで。

そう口にできるものならばしたかったが、ただ無言で首を横に振った。
思いは告げるつもりは無い。だから、必要以上の事は口にする事は無いのだ。


痛む体を引きずるようにして歩く将軍に肩を貸す。暖かい…生命を感じ涙が溢れそうになるのを目を見開いて耐
えた。 愛おしい温もりが肩を通して染み渡る。


「・・・陳宮・・」


不意に聞こえた将軍の呟き…

その名は知っている。
殿を裏切り、呂布の軍師として現在敵対している文官の名。

私が殺すべき男の名…

確かめたくて聞き返したが、将軍はなんでもないとしか答えてはくれなかった。
だが、胸の奥では確信していた。

将軍を汚した男の名だと…


「韓浩、中で見たことは孟徳には黙っていろ。借りは己の手で返す」


そう言って拳を握り締める将軍にただ黙って頷いた。



言われなくとも報告するつもりなどない。
殿といえど、譲る気は無いのだ。



陳宮…その男を殺すのは殿でも将軍でもない。



この私だと。



胸に燃え盛る炎を押し隠し、私は凶悪な笑みを浮かべた。








生みの苦労を味わった作品(笑)そのわりにたいした内容ではない駄文(爆死)
なんだかなぁ…惇の人質事件を韓浩がらみで書くと、どうも桃ノ助たんに貰った韓→惇に内容が似て…がふがふ;
ええいっ!!意識したわけじゃないんだけどねっ!!
えっと、ラストをうちの陳宮×夏侯惇「憎愛」と絡ませてみました^^
どうだろう…微妙?(笑)

2005.11.20