-隻眼で生きること-




曹操は、夜遅く夏侯惇に与えられている室へと足を運んだ。

目的はあった、訪ねる時間としてはいささか遅すぎると気になってはいたが、どうしても確かめたく、一度そう思ったら我慢が出来なかったのだ。

室の前までくると、部屋の主はまだ眠ってはいなかったようで、燭台に灯る蝋燭の灯りが淡く橙に格子戸から漏れていた。


「夏侯惇」


一つ咳払いをした後声をかける。

カタリと椅子を立つ音がし、すぐさま廊下に近づいて戸を開くと、夏侯惇はいかがなされましたか?と問い微笑む。

呂布との戦いで負った傷がまだ癒えておらず、左目を中心に顔半分を覆うよう巻かれた布が痛々しい。

眼球がなくなり片目となった視界が未だ慣れぬのだろう、歩く時躓くのを危惧し何度か腕を宙に伸ばしていた。


「散らかっておりますが…どうぞ、こちらへお掛けくださいませ」


散らばった竹簡を纏めながら椅子を勧められたが、曹操は無視をして夏侯惇の寝台に腰を下ろした。


「何かお持ちしますか?お酒ならばここにありますが…」
「酒を貰う」


別に飲みたい気分ではなかったのだが、これから問おうとしている言葉を突きつける勢いが欲しく、酒を飲むことにした…


何を弱気になっている…


口に含んだ酒は曹操好みの味で、言わずとも自分の為に用意されている酒だと気づけた。

夏侯惇は酒に弱く、宴の時などでなければ進んで口にすることなどなかったのだ。

いつ曹操が部屋に来てもいいようにと、夏侯惇自身が用意したのだろう。


「……殿、何かありましたか?」


杯を持ったまま一向に口を開かない曹操に夏侯惇は首を傾げた。


「………夏侯惇、軍を抜けるか…?」


重々しく吐き出された言葉に夏侯惇は目を一瞬見開いた。


「片目で戦うには戦場は無情すぎる…」


弱い者は死ぬ―――


曹操は夏侯惇を失うことを恐れた。

武力がないわけではない。
夏侯惇とていっぱしの武将……しかし、片目となった今、何かがあったらと曹操はたまらなかった。


「私は戦場を去るつもりはありません……もし、殿が私を役に立たないと思ったなら、 死に兵としてお使いください」


戦には犠牲になることと引き替えに戦局を変える『死に兵』というものも必要だった。

役目は命を捨て敵にぶつかること…


「馬鹿を申すなっ!」


声を荒げる曹操の顔を夏侯惇は悲しげに見つめていた。

役にたたないなら死ねと言ってください。いらないなんて言わないでください。
そう言っているのがわかり、曹操は溜息を吐き出した。
死なせたくなくて戦場を去れと言ったはずが、死を賜る方がマシだと言う夏侯惇に喜びを感じてしまう自分がいるのだ。


「片目で渡るには戦場は危険だぞ…いつ何時命を落とすやもしれん、それでも引かぬか…」
「もとよりこの命、殿の為お使い頂けねば意味のないモノでございます」


真っ直ぐに見据えたまま微笑む顔は、曹操の為生きるという確固たる決意によって至福の表情にさえ見えた。


「わかった。もう何も言わぬ」


大きく息を吸い、こちらも決意を決めねばならぬと姿勢を正した。


「夏侯惇よ、しかし死ぬことは許さんぞ。去らぬと言ったならば最後まで将として生きよ」
「……承知いたしました」
「ところで夏侯惇」
「はい?」
「自分の目玉を食ったという噂を聞いたのだが」


重くなってしまった空気を払拭するべく、ニヤリと笑ってからかってみると途端に顔を赤らめた。
普段の夏侯惇からは似合わない噂だった為半信半疑だったが、どうやら事実だったらしい。
曹操は意外に思い、目を丸くして夏侯惇を見た。


「あ…あの…つい夢中で…士気を低下させては…と…」


お恥ずかしい、と顔を赤くししどろもどろに話す夏侯惇につい耐えきれず吹き出した。
笑われた夏侯惇は居心地悪そうに顔を俯かせる。


「ふははっ…やはり我らは血縁だということだな。物静かなお前にも俺と同じ激しい血が流れているのだ」


そう言って可笑しそうに笑い続ける曹操に、夏侯惇は釣られて笑った。







END



2006.04.06再録