-傍ら-






土煙が舞う中を駈ける。


目指すは、董卓の首。


夏侯惇は今、洛陽を捨て長安へと向かう董卓軍を追っていた。
暫く殺風景な野を駈けると、不意に点々と黒い物が目に入りだした。


「孟徳…なんだあれは…」


夏侯惇は目を細め、道しるべのように散らばる点を眺めた。
半端な数ではない。近づくにつれ大きくなる点。
そして徐々にその正体が明らかになりだす。


「っ…なんという事だ…」


点の正体を目にした夏侯惇は、驚きのあまり思わず顔を逸らしてしまった。

軍馬や馬車に踏み荒らされた地に、音もなく転がる物体は、董卓軍によって殺された民だったのだ。
無惨にも体を刀で一刀両断にされ、見開いたままの濁った瞳が最後の恐怖を表していた。


「途中ついていけなくなり足手まといになった為、殺したのだろう…」


曹操の言葉に目をやると、確かに転がる死体は老人や女子供ばかりだった。

中には子を庇うように抱き抱え、そのまま二人で絶命している親子まで見られた。
あまりの凄惨な光景に、夏侯惇は眉を寄せる。


「孟徳……董卓は許してはいけない…」
「あぁ、これは本気で討たねばならぬな…」


曹操は痛ましそうに死体の数々を眺めた。
無理矢理に遷都を強い、挙げ句弱い者は容赦なく斬り殺す。

そのような男をのさばらせるわけにはいかないのだ。

曹操は追撃中の自軍に振り返り、声を荒げた。


「皆!ここに果てし者達を、己の親と思え!己の兄弟と思え!己の愛する者と思え!」


怒りに燃える瞳は兵全体を見わたす。


「我らは董卓の蛮行を許してはならぬ!お主等の命、この曹 孟徳が貰う!皆、死ぬ気で攻めるのだ、狙うは董卓の首一つッ!」
「オーーーーッ!!」


気炎万丈とはこのようなものを指すのだろう…夏侯惇は腹の底から怒りと共に、別の何かがこみ上げてくるのを感じた。

まさに一丸となった曹操軍。
そしてそれらを率い、威風堂々とした曹操の姿。
今の時点での兵の数は問題ではなかった。
ただ、夏侯惇にはその姿が眩しく、そして誇らしかった。


「行くぞ!元譲、まだ息のあるものもいる。奴らは近いぞ」


言って馬腹を蹴った。
曹操の気迫につられ、馬は竿立ちになり駈け出す。

その背を見ながら夏侯惇は確信したのだ。

自分が仕えるべき主は曹 孟徳をおいて他には無いと。

そして、そう思った瞬間、袁紹の自分に向ける優しい笑顔が浮かんだ。

遠い昔、彼と交わした約束。


袁紹が命を懸けてもいいと思える男になったら、袁紹の部下になると…


我ながらなんと生意気な子供だったのだろうと思う。


本初はあの約束を覚えているのだろうか…

自分はまだ、本初の器を見定めてはいない、それなのに、主君と仰ぐ人間を心は決めてしまっている。


もう他の人間に尽くすつもりなどないくらいに、曹操の器に魅せられているのだ。


「元譲?どうした?浮かない顔をして」


黙って考え込んだ夏侯惇を、怪訝そうに見る。


俺を信じている目だ…


夏侯惇は曹操の瞳を覗き混み、思った。
勿論、この信頼を裏切るつもりなどは毛頭ない。
だが、本初と戯れ半分に交わした約束を隠しておくことは裏切りではないのか?もし、本初とのその約束が今も生きているものだとしたら?


「孟徳…あのな、俺昔…」
「伏兵ですっ!」


いっそ笑い話のように告白してしまおうと思った矢先、偵察を兼ね、前を走っていた兵が叫んだ。


「りょ…呂布ですっ!」


夏侯惇は思わず自分の耳を疑った。


呂布だと…?


伏兵がいないなどとは思っていなかった。
しかし、殿軍を務めるのはかなり危険な事だと、昨日今日入隊した兵でも知っている。


董卓にとっての切り札は二つ。
まだ幼い献帝。そして、無双の猛将・呂 奉先。


その呂布さえ董卓についていなければ、連合軍がここまで苦戦することはなかっただろう。
つまり、董卓にとって、呂布は一番重要な最強の盾なのだ。


万が一にも討ち取られてはならないような将を伏兵として残すとは…


夏侯惇は自分の読みは甘いのだと思い知らされた。

前方の高台から、土煙をもうもうとあげ、呂布が率いる騎馬隊が駈けてくる。

まさか呂布がいるとは思っていなかった為、不意を突かれた曹操軍は混乱してしまった。
慌てふためき陣が崩れ出す。


「静まれっ!陣を崩すな!」


叫んだが、阿鼻叫喚の中、その声はかき消されてしまった。

士気は充分だった。皆、命を捨てる覚悟をしていた。

しかし、それさえも呂布の出現でいともたやすく崩されてしまったのだ。

呂布とはそこまで影響を与える存在なのだ。


叫びながら逃げ惑う兵に囲まれ、思うように馬体を制せない。
気がついた時には、側にいたはずの曹操とはぐれてしまっていた。


「しまった…孟徳っ!どこだっ…孟徳!返事をしろっ」


忙しく首を巡らす。しかし、曹操を乗せた馬を見つけた時には既に遠く引き離されてしまっていた。
慌てて追いかけようと馬腹を蹴る。
途端、横から突き出された槍に体を大きく反らした。刀で応戦し、群がる敵を屠る。
次から次ぎに向かってくる敵を相手にしなければならない。


キリがない!


こうしている間にも曹操は離れていく一方だ。
夏侯惇は焦れた。


「チッ……貴様等!邪魔をしおると叩き斬るぞっ!」


叫びながら敵兵を斬り捨て、目の前が朱に染まった。
陣を崩してしまった軍は、その力の半分の強さも発揮できていなかった。周りを見れば、敵兵よりも遙かに多い仲間の死骸。
次から次に突き出される槍や刀に、夏侯惇自身も自分の身を守るので精一杯だった。


「孟徳ぅっ!」


やっとの事で混乱を抜け出た頃には、夏侯惇はすっかり曹操の姿を見失ってしまっていた。


まだ始まってもいない!
こんなところで曹操軍が終わるわけなどない!


「孟徳っ!孟徳、どこだ、返事をしろっ!」


声を張り上げた。
何度呼んでみても返事も無ければ、場所を伝えくる兵もなかった。


「孟徳ーっ…孟徳!」


がむしゃらに馬を走らす。
脳裏をよぎる嫌な予感に、血の気が引いていく。
それを振り払う為、狂ったように刀を振り回した。
返り血で柄が滑る。左腕や右脚には感覚がない、恐らくは弓でも刺さっているのだろう。それでも夏侯惇は曹操の事しか考えられなかった。


痛みは感じない。

ただ、失うものかと思った。


「惇兄っ!」
「妙才!無事だったか!」


声に振り返ると、肩に弓の刺さったままの夏侯淵が駈けてきていた。


「惇兄!殿の場所がわかった!あっちだ!」


馬上で指を指す。その方向には川が見えた。
夏侯惇は素早く馬首をかえすと、そこへめがけ全速力で馬を走らせた。


どうか、無事でいてくれ!


初めて怖いと思った。

曹操を失うかもしれないと思っただけで、こんなにも怖い。
目眩がしそうな慟哭に渇を入れ、ただひたすらに駈ける。


「孟徳ー…どこだ!返事をしろっ!」


川縁を必死になって探した。
川は流れが速く、落ちて流されたのではないかと下流にまで視線をやった。


「惇兄っ!あそこだ!」


遅れて川縁に辿り着いた夏侯淵が、ある一点を指差した。
指の先に見えたのは、馬もなく、ボロボロになった曹操。
そして、今まさに敵兵がその曹操に向け、刀を振り下ろす寸前だった。


「孟徳っ!!」


悲鳴のような声をあげた、振り下ろされる刀がゆっくりと目に映る。


ビュンッ!


耳元を過ぎる、風を切る音。

次の瞬間、曹操を斬り殺そうとしていた兵は、無様な声をあげ地に伏した。


「元譲っ!夏侯淵っ!」


こちらに気づいた曹操は、安堵の表情を見せる。


助かったのだ…


夏侯惇は全身が脱力していく感覚に、漸く息を吐いた。








曹操軍はほぼ壊滅状態だった。
だが、幸運なことに、主力である人材を欠くことなく、洛陽へと帰還できた。


皆、満身創痍。

まさに負け戦。

だが、曹操を失ったわけではない。

孟徳さえ無事ならば、いくらでも出直せる。

夏侯惇は失いかけて、より曹操の為に命を懸けようと思った。


やはり本初には悪いが、この思いだけは変わりようがない。


ボロ負けで帰ってきた曹操らを見て、諸侯らはそら見たことかと思ったらしい。
心配した素振りをしているが、それが本気でないことぐらい夏侯惇にもわかった。
悔しさに唇を噛むと、曹操は軽くポンと頭を撫でて笑う。


「気にするな。臆病者など相手をする価値もない…だが、見てみろ元譲」


そう言って顎をしゃくる曹操の示した先を見る。
追撃前とは兵の態度が違うことに気づき、夏侯惇は目を丸くした。

なんと表現したらいいのだろうか。
好意的な眼差しを向けられ、夏侯惇は対応に困った。

帝の為、鬼神呂布に怖気もせず、ただ一軍追撃に出た曹操軍は兵達の心を熱くさせていたのだ。


「元譲…我らは負けた。確かに失ったものは多い…だがな、それ以上のものを手に入れたようだ」


曹操の言うとおり、中華全土にその名は轟くだろう。誠の忠臣と。
そして、その評判はこれからの曹操の強い武器になる。


「孟徳、兵を集めねばならんな」
「あぁ、ショウだけでなく、広く募兵をしよう…これから忙しくなるな」
「元譲…袁紹のところへは行かなくていいのか?」


曹操の言葉に驚き、夏侯惇は思わず瞬きを繰り返す。


「知らぬと思ったか?お主の事で知らぬことなどないぞ?」


からかうように言われ、途端顔を赤らめる。
言ったことなどなかったはず。なのに曹操は夏侯惇の幼き日の戯れ混じりの約束を知っていたのだ。


「もう一度聞くぞ。行かなくていいのか?」


今度の問いに甘さはなかった。

今選べ。

そう無言で告げている。

夏侯惇は、一度深く息を吸うと、胸を張ってハッキリと答えた。


「仕える主は俺が自分で決める。俺は孟徳以外を担ぐ気はない」
「そうか」
「そうだ」


曹操が口の端を上げて満足そうに笑うのを見ると、夏侯惇も自分の答えは間違っていなかったと満足する。


「なぁ、俺が本初のとこに行くって言ったら、どうするつもりだったんだ?」


つい好奇心から聞いた。
勿論、その可能性が無いということぐらい、夏侯惇も曹操もわかっていた。
だが、いつもからかわれているばかりの様な気がし、少し悪戯心がわいたのと、曹操の本音を聞いてみたいという思いからだった。

夏侯惇の言葉に、曹操は意地悪そうな笑みを口元にはりつけ、目の前に揺れる戦に乱れた髪を掴み引き寄せた。


「痛っ、孟徳っ」
「他所へ行くなどと言ったとしても、行かせはせん。お主は儂の傍で儂の為に生きるのだからな」


自信過剰な言葉に、髪が痛いのも忘れ、思わず吹き出した。


「決まっていることなのか」
「当たり前だ。お主が儂の前を去ってから、どれだけこの時を待っていたと思う」


胸を締め付けられるような言葉に、夏侯惇は目を細めた。

こんなにも自分を必要と言ってくれる。
従弟であることが誇りとまでに思える男が、だ。


「俺の命は生涯お前の為に使う。一族の誇りを懸けて誓うぞ…孟徳、本初に別れを言ってくる」


夏侯惇の言葉に、曹操は無言で頷いた。








「本初……袁紹殿っ!お話が」


荒れ果てた都を見て回っていた袁紹を捉まえた。
約束の返事と別れを伝えるために。


「元譲、無事だったか…よかった」


夏侯惇の姿を見るや、袁紹は緊張して強張っていた顔を緩めた。


生きていた…


夏侯惇の無事だけで、洛陽の無残な姿に袁紹の心を支配していた怒りや悲しさが消えていく。

改めて、元譲だけが特別なのだと再確認し、袁紹はよりによってその唯一無二のものが手に入らないという焦燥感に、吐き気さえ覚えた。


「心配かけてすまない…惨敗だった…」


悔しさに唇を噛む。


「お前が無事ならいいのだ…」


袁紹は夏侯惇の頬にそっと手を添えた。無意識に甘えるように顔を預けられ、袁紹の目が優しげに細められる。


「……行くのか?」
「え…?」


きょとんとし、瞳を覗いてくる仕草は昔と変わらなかった。
その全てが愛おしくて堪らない。


「曹操に付き従うのだろう?」


聞きたくはない言葉を、聞かなくてはならない。
夏侯惇が何を言いに、わざわざ自分を探したのかわかっているから。

義理堅い夏侯惇が、自分との約束を反古にする事を告げに来た。
ならば、自分は少しでも夏侯惇が裏切りだと心を痛めないように振る舞うまで。


「‥あぁ…うん…」


やはり袁紹の思ったとおり、夏侯惇は途端に申し訳なさそうに俯いてしまった。


「元譲、出発の門出に下など向くものではないぞ?決めたのだろう?胸を張れっ!」


厳しく、そして優しい声だった。


「本初……ああ、俺は孟徳の為にこの武を使う。戦になれば、本初とも敵になるかもしれん…だが…それでも決めたんだ」


しっかりと目を見て自分の思いを伝える夏侯惇に、満足し頷く。
例え、自分を選ばなくても、夏侯惇には堂々と己の思いに真っ直ぐに生きて欲しいと思うのも本音だったのだ。


「元譲、曹操が仕えるに値しないと思ったら、いつでも来るがいい。歓迎するぞ」


冗談混じりに言う。

勿論、言った言葉は本気なのだが、今は気持ちよく送り出してやりたいから。


「そうならない事を願うさ。俺の目が間違っていたとは思いたくないからな」


悪戯な笑みを浮かべて返され、袁紹は苦笑を漏らした。








洛陽から曹操軍が発っていった。
馬に跨り堂々としたその背を眺め、袁紹は大きくなろうと堅く誓った。


いつの日か、大事なものを手に入れる為に…





続く


書きかけのまま放置してましたすみません(またか)
やっとここまできました!!後は曹操対袁紹で終わりにしたいと思います…長ぇなオイ;
あと暫くお付き合いくださいませ^^

2006.05.08